自分ならどうする?考えておきたい臓器移植
臓器移植法が改正・施行され、脳死判定が行われた本人の書面による意思表示なしに家族の承諾だけで臓器移植が可能になったのが7月。
それから1月もたたないうちに、家族の承認のみでの臓器提供が2件あった。交通事故で脳死状態になった20代男性から5件の移植が行われたという1例目は、移植手術の経緯を中心に各種メディアが取り上げたこともありブログ上でも話題になった。
男性が生前家族に臓器提供の意思を伝えていたということもあって
など多くのブロガーが「自分だったら」と考えるきっかけになっていた模様。
と、臓器移植を待つ人々の「役に立つ」ことを積極的にとらえブログ上で臓器提供の意思表示する人がいる一方で、今回の件より以前から
と意思表明をしている人も目立ち、これまでも議論が繰り返されてきた「脳死」問題への関心の高さを印象づける。
「脳死は人の死か」という根本的な問題から、改正臓器移植法にまつわり「家族が何をもって本人の意思表示と判断するか」など難しい論点を多く含むので
など、「臓器提供したくない」という意思が明確な人も多い。
また今回の報道に接して
と新たな迷いも出てきている。
すぐに結論が出なくても、状況によって考えが変わったとしても、臓器提供の実態を知り自分の問題として考えるきっかけになるだけでもいいのだろう。ブログのコメントが臓器提供の「意思表示」として判断材料になる可能性もあるのだから。
(夏目昌)
【データは2010年8月22日1時20分】
男性が生前家族に臓器提供の意思を伝えていたということもあって
・ニュースを見て母と話し合った。私は提供してもよいと思ったが、母は結論を出せず。
・臓器提供カードがコンビニにあって、テレビで見たこともあったからもらってきた。
・改めて見ると、健康保険証の裏側に臓器提供の意思表示欄があってリアルだったー!
など多くのブロガーが「自分だったら」と考えるきっかけになっていた模様。
・使える臓器があるなら、だれかの体に入って生きてほしい。
・だれかの役に立つなら臓器提供してもいい。
・死んだ後なら何でも持っててって思う。
と、臓器移植を待つ人々の「役に立つ」ことを積極的にとらえブログ上で臓器提供の意思表示する人がいる一方で、今回の件より以前から
・いつでも臓器提供意思表示カードを持ち歩いてます。
・携帯してる運転免許証とは別に、自宅の冷蔵庫にカードをはってある。
・2年くらい前にドナー登録してます。
と意思表明をしている人も目立ち、これまでも議論が繰り返されてきた「脳死」問題への関心の高さを印象づける。
「脳死は人の死か」という根本的な問題から、改正臓器移植法にまつわり「家族が何をもって本人の意思表示と判断するか」など難しい論点を多く含むので
・たとえば我が子のまだ温かい体を死んでいるものとして見れるかと考えると…
・脳死判定には不確実さがつきまとうのに、不確実な判定で臓器を摘出されるのはイヤだ
・自分が救いたいと思う人に提供することは躊躇しないが、誰に提供するか決定権が自分にないのが嫌
など、「臓器提供したくない」という意思が明確な人も多い。
また今回の報道に接して
・移植を善意と印象づけるのはキケンだと思う。移植しない選択は悪意ではないのだから。
・マスコミが、移植手術に向かう臓器のケースに群がる感じに違和感。
・自分の臓器はあんな風にマスコミに追いかけられたくない
・今みたいな報道のされ方なら、家族が実際に色々困るだろうから、移植しないに○をしよう
と新たな迷いも出てきている。
すぐに結論が出なくても、状況によって考えが変わったとしても、臓器提供の実態を知り自分の問題として考えるきっかけになるだけでもいいのだろう。ブログのコメントが臓器提供の「意思表示」として判断材料になる可能性もあるのだから。
(夏目昌)
■その話題、ネゴトで話さない?「ネゴトーク」
「臓器移植法」について寝言を言ってみる・・・
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日本、いや世界でもまだまだ研究が進んでいないが、人の体は眼に見えている肉体だけでなく、その中に霊体が宿っている。呼び方は何でもいいが、眼に見えない実体がある(仮にここでは霊体とする)。だから臓器提供すると、その人の霊体まで移るときがある。
アメリカで臓器提供された人がなぞの夢を見るようになって、追求したら元の臓器提供者の意識だったことが判明なんてのは結構ある話。それは霊体があるから。
だから安易に人の体をもののようにパーツで捉え移植なんて事をするのは危険でもある。
肉体の死がその人の死ではなく、肉体は滅んでも霊体になり生き続けるわけだから、その人の尊厳とか考えたらあまり好ましいことではない。
肉体の死イコールその人の死と考えてはいないので、私は臓器は提供しない。
肉体の死の先も生があることを知っていれば肉体の生だけにとらわれる生き方も少しは変わると思う。これはあくまで個人的意見だが、このような眼に見えない世界の研究が進めば臓器移植の意味も変化すると思う。
投稿情報: たくや | 2010/08/26 01:35
こんにちは、何か引っ掛かる部分があって書き込ませていただきます。
臓器移植の問題自体は、今に始まった事ではないようですが、法律改正後に初めての事例があったので、改めて話題になって、議論されているのでしょうね。
臓器を提供して、その受け取る方が、生き永らえる。 それで、その受け取る側の身内も喜ぶ。 これは、人助けになるように思えます。
ただ、この場合、ある一部分しか見ていないか、それ以外は見ないようにしているか、そのいずれかをも考えられます。
まず、提供者側の意見は、一致していて問題ないとして、受け取る側はどうでしょうか。受け取る本人は、そのような時に冷静に判断して、受け取る事に同意しているのでしょうか。
もし、本人が精神不安定な状態ならば、臓器移植の云々以前の問題ですよね。
この場合は可能な限りで本人の意思を尊重するべきではないでしょうか。
また、元来ならば不可能なことを、発達した「技術という力」を持って、実現させる。 この事自体は、人類に発達として受け入れられる事かもしれません。
生物の一個体から、また別の一個体への体内物質の移動によって、一方を寿命以上に生きさせる。
これは、まず自然にしていてはおき得ない事です。
そのことが、そうしない事よりも必ずしも優れていて、当事者皆にとってさえ幸せな事であるとは、考えられません。
それは、どちらが正解で、どちらが間違っているとういうよりも、人間の種としての秩序が気になります。これが、少数のうちは誰も異変を感じないことも当然なのでしょうが。
あと、魂と、肉体は別であっても、臓器を受け取った本人は、自分の物とは違った違和感が、生じないのか疑問です。
これは、手術でどこかを抜き取られたり、何かを取り付けられたりするとき以上に強い感覚が起こると思います。
魂の存在に関しては詳しく知りませんが、それにも何かしらの摂理があるならば、影響は計り知れません。
抽象度が高く、本題から逸れているかもしれません。
つまり、一度、他の体組織のなかでの役割を終えた物を使って、より生きさせることが、結果として、必ずしも適した選択では無い、と考えます。
一方で、見方を変えることで、それは美しいです。
臓器の提供者と、受者がお互いの顔は分からずとも、それぞれが両者の行為を認め合えているのならば、それは誰もが賛成出来ると思います。
法律だけではどうにもならないことですね。
しかし、もっと法律、医療や、その他学問の見聞は広めていきます。
最後までお読みいただき、感謝申し上げます。
投稿情報: 大丈夫 | 2010/09/01 04:27